教育は30年でどのように変化したか?

学校のブラック化はなぜ起こったのか? - それは必然でした -

30年以上前は良い時代でした。
夏休みは自宅研修という名目で出勤しなくてよい日が設けられていました。
日頃のストレスから解放され、遅れていた業務を仕上げるのにはよい機会となっていました。
しかし、夏休みに自宅に居るとご近所の目は厳しいです。
「公務員が仕事もしないで給料をもらっている。税金泥棒だ!!」
そのような考えが全国的に広まりメディアも取り上げ一気に爆発しました。
「教員は暇すぎるからもっと仕事をさせろ!!」
日頃から子供達のために時間を惜しまず仕事を自宅に持ち帰って夜遅くまで授業の研究をし、土日にもかかわらず部活動のために出勤し、自分のための時間が持てないけれど子供達のためだからと働いていても世間の目は内情を知らずに「もっと仕事をしろ!」という流れでした。
おまけに本来は家庭でするべき躾なども学校へ委ねられるようになりました。
その他にも保護者がすべきことが学校へ押し付けらました。
これが教員の仕事のブラック化の始まりであると考えます。
当時私は私学の教員でしたが、私学も補助金をもらっているため同様に認識されていました。
現在の教員の仕事のブラック化は必然です。

羨ましいなら教員になれば・・・

当時は世論に反発して「羨ましいなら教員になれば良いでしょ」と言い始める馬鹿な教員もいました。
人の気持ちがわからない馬鹿が教員をやっているのですから、世間の意見は厳しい物になります。そんな教員に教えてもらう児童・生徒もかわいそうです。
こんな教員がいることも議論しなければならないのでしょうが、そのような教員は相当苦労して教員になったのでしょうね。昔は袖の下で教員になった者も居ると言うことですし、昔の報道を見れば事実です。
そのような他人の心がわからない教員が火に油を注いだのも一因でしょう。

なぜ仕事量が増えるのか

教員の仕事量が増えていることは報道などでご存じでしょう。
では、なぜ仕事量が増えるのでしょうか?
公立学校と私立学校では仕事が増える理由が異なるように思います。
長年勤めた私立では同じクオリティを保つためにはどのようにして業務を簡略化するかが課題でした。つまり、同じ仕事をするとき手間を省けば人件費が削減されコストが下がり授業料を上げなくても良く、また、余った人手で違うサービスを提供できる環境を整えることができるのです。
しかし、公立学校では、今まで構築された業務を改善するという発想はほとんどありません。加えて、教員が自分の立場を確立しようと新しい試みを取り入れます。もちろん、その試みの中には教育的に素晴らしいものも多くあります。ですが、業務を精査して排除することをしないので業務は多くなるばかりです。確かに、捨てがたい業務もあるでしょうが、捨てなければならない業務もあるはずです。それを捨てられない体制が仕事量の増大に至っていると考えます。

教員の志願者大幅減

現在の小学校教諭の採用試験の倍率をご存じでしょうか?
都道府県により異なりますが引くい県では3倍を切っています。
30年前は10倍を超えていたと想います。
倍率が下がったから一概に教員の質が劣化したとはいえませんが、採用する側から考えると採用人員の選択肢が減ったことは否めません。
さらに、新採用の教員の退職率も上がっているようです。
昨年話題になった神戸市の教員間のいじめ問題もしかり、面倒くさくて大変な業務を「私も若いときにはやった。若い教員がやるのが当たり前だ」と言ってしまえる環境。時代は変化しているのに教育現場は進化できていない。

では、何故新人の教員が辞めてしまっても、ベテランの教員は辞めないのか?多分、家庭を持って守るものが出来てしまうと転職を考えずらくなるのでしょう。逆に、新人は守るべきものがないので転職も視野に入るのではないかと思います。

もし、今、職業を選ぶとき「教員になりますか?」と聞かれたら、私はなりませんと答えます。
なぜならば、コスパが悪すぎます。何を好んで文句を言われる立場になろうとするのか理解できません。だから仕事として選択する価値がないと考えます。
昔流れていたCMに「職業選択の自由、はははぁ~ん」という曲が耳に残っていて鳴り響きます。